文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

 民主党の代表選挙のこと。連日(本稿執筆時)メディアで報道されているそのテレビでのある場面、明らかに国民から支持の低いボスの隣ににこやかに居並ぶ新人議員(僕らも良く知っている彼女達)。取材に、強いリーダーシップが要ると言います。それを見ていてふと思ったこと。彼女たちは何か恐れを抱いているのではないだろうか、と。

 そこで今回のテーマ。リーダーを求める側のについてです。

 少し考えてみましょう。組織(国、会社、団体問わず)の中で生きる人には、二種類の恐れがあります。自分の意見や行動に対する仲間の評価(その内容、首尾一貫性など)への恐れ(①)。もうひとつ、思い通りやったときは組織で生きていけない、という恐れ(②)。①と②の感覚はまったく異なっています。①は、自分の思考と行動の内容に関するもので、それに自信がないと、他の人の言葉を引いたり、真似をしたりします。他の人とは、創業者や、宗家、教祖、学者、評論家です。一方、②は反抗すれば処分(企業では解雇)されるかもしれないという恐れ。そう、①はよりどころを他に求める心理です。不安な心が求めていく相手が「権威者」です。②は罰を恐れる心です。制度やシステムや仕組みの上での力で、こちらが求めているのではなく、その人がその地位によって持っているのです。その地位の人が「権力者」です。つまり、権威と権力とは違うのです。権威はこちらから求めてしまうもの、権力は相手が持っていて向こうから押し寄せてくるものです。

 世の中には、権威と権力両方を同時に持っている場合もあれば、権威はあるが権力はない権威がないのに権力を持っている、と様々です。昔の“親父”は両方もっていましたね。新興宗教の教祖、ベンチャーのカリスマ経営者もそうでしょう。あなたの周りのボスはどうですか?

 さて、新人議員の場合。政策に自信がないと権威を求めます。地位が不安定だと、地位をくれる権力者にすがります。だから、①も②も強い。彼らにとっての権力者とは、有権者とボスです。有権者の持つ権力は将来の選挙における1票。これは当分行使されないから、今のところは、ボスだけが権力者です。ボスは自分のポストを左右する人事権を持っています。自立していない彼らの笑顔の向け先は誰でしょう。

 閑話休題。いや、本論です。企業組織の健全な発展、成長を図っていこうとする我々はどうあるべきでしょうか。自分の権威と権力について、改めて考えてみませんか。権力の行使によらず(権力をメンバーに意識させない、つまり、②の恐れを低くし)、一体感を持つ、それでいて、多様な考えの存在を許す、そんな芸当が、リーダーには求められています。メンバーが自立していると、リーダーに対しても堂々としています。それが嬉しいと思いたいものです。ちょっと厄介でも、多様な意見が持続する組織を作るのです。

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※注 これまでのシリーズで、時々頭をかすめたのだけど触れられなかったこと、それは「言葉」の意味のことだ。僕たちがいろんな人と意見交換するとき、使っている言葉の意味が微妙に異なり、内心、理解しあえているのか心配になることがある。その人の主張を誤解してしまうことがある。また、言葉の意味を考え直してみると、まったく新しい感覚で、違うレベルの理解が得られることもある。だから、言葉の意味を考え直してみようということを、いつも言いたかった。今回取り上げた言葉は、権威と権力。これについては、何十年も前、なだいなださんの「権威と権力」という本(岩波新書、1974年)を読んで目から鱗であった。上の私の理解はすべてなださんのこの本から学んだ。 次号以降も、その時々の出来事から言葉を選んでみたい。 

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

2010年10月号(VOL 123)より

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文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

  おぞましい話題が続いています。が、とりわけ、目を疑ったのが、大阪地検特捜部の押収品データ改竄事件でした。
 朝日新聞の最初のスクープ記事ではまだそれが確定的だとの印象を受けませんでしたが、日を追うごとに真実味を帯びてきて、今日(10月8日)現在では、実行検事に加え、とうとう前特捜部長、副部長の逮捕拘留にまで発展してしまっています。
 記事に我が目を疑ったと言うのは、とりもなおさず、私にも特捜部に対し権威を感ずる心があったということでしょう。「トクソーブ」という言葉は確かにある種独特の響きを持っています。総理であれ誰であれ、権力を笠に闇で悪事を働く連中を脅かし、ひと泡吹かせてくれる正義の存在であったのです。
 時の政治権力からの介入を許さず、権威と権力(前号参照)を併せ持った現代のサンクチュアリと言うに相応しい存在でした。
 ところがどっこい、起訴された村木さんが無実であることが裁判で明らかにされ、国民の冷笑を招いたのもつかの間、この「捏造」の発覚です。
 さて、この事件から何を読み取るのでしょうか。ことばシリーズの今号、取り上げるのが、言葉ではなく事件になってしまいましたが、事件は避けて通ることができません。読者の皆さまもきっと同じだと思います。この事件は、私たちを嫌な気分にさせたままだからです。私たち自身の出口はなんでしょうか。
 事件を暴いた朝日新聞は社説で指摘します。「なぜ声を上げなかったか」()と。「不都合なことを見ない。黙る。それは、組織とそこに属する人間がしばしば陥る落とし穴である。日々の社会生活の中で私たちの多くが経験しているといっても過言ではない。」と。
 そのとおりです。似たことは、会社組織でも経験しています。ですが、社説は次にこう言います。「しかし、人間の弱さで片づけていい問題ではない」。え?、ではどうするのか?続けます。「(検察関係者は)改めて自らの行動を振り返り最高検による今後の操作と検証にのぞまなければならない」と。
 せっかくの格調もこう展開されると平板です。組織の不祥事が発覚すると必ず識者が言うではないですか。膿を全部出し切れ、と。それと同じです。ですが、出口は、これで良いのでしょうか。
 翻って考えてみます。落とし穴があるとすれば、それは、組織の中の我々が作る。膿は我々の膿、けして、他人のものではない、綺麗にした後にも、また、膿を再生産する。善きことをするエネルギーが同時に膿を生みだすというパラドックス。いうところの「内部統制」制度を、さらに重層的に作るということが出口だとも思えません。
 私は、こう思えてきたのです。
 「弱さで片づけていい問題ではない」が、弱さを認めることが必要ではないでしょうか。もっと言えば、プロこそ、自分はそんなに正義ではない、という謙虚さを求められているのではないかと。この自戒こそがプロの条件です。きっとそうです。 

※注 これは平成22年9月23日朝日新聞社説の題名。この言葉は組織を扱う私達を突き、頭を垂れずにはおれません。原文を是非お読みください。JPAにお申し出くださっても結構です。この事件から何を感じたか、皆さまからのご意見も頂戴したいと思います。

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

2010年11月号(VOL 124)より

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文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

 差別化戦略
 「区別」と「差別」という言葉が気になる、と本誌、編集委員からヒントを貰って、今回はこの「差別」をテーマにしました。
 マーケティング用語に「差別化」戦略(注1)がありますが、「差別化」でなく「差異化」を使うと言った、有名な経済学者がいました。差別という言葉が差別用語だ、という理由でしょうか。なんだか変ですね。
 辞書には、差別の第一の意味は「比較される双方に構造(形態)上明らかに認められる区別」で、そこから第二の意味として「優越感を味わおうとしての偏見に基づいて、自分より弱い立場にある人間や何らかの不利な条件を負っている人に、不当に低い待遇を強いること」という使い方が出てきたとあり、区別は(複数の)「ものの間にある特徴の違い(によってそれらを分けること)」とあります(注2)。
 区別は平面的な「区分け」。差別は上下の「区分け」で、優れているか劣っているかという「尺度」が先に存在するということです。そして、その尺度は、する側の心の中にあるのです。
 マーケティング用語の「差別化」は、商品の特徴づけをする戦略で、営利活動であるマーケティングの真髄をよくあらわしています。その特徴づけによって優劣の差をユーザーに感じ取ってもらおうとすることで、差別という言葉の使い方としては当たっている適切な言葉(翻訳)だと私は思うのですが・・・。

よそ者扱い
 その対象が人であったときはどうでしょう。
 尺度が少数の人の心にあるだけでなく、社会に広がっていくと、それは社会全体の常識となります。安全でいたいと思うのは人の本能ですから、なんらかの尺度を持ち込み自分たちを囲い込みます。よそ者扱いされるのを避けるためよそ者を作るのです。子供たちの「いじめ」もこれです。子供たちは成長するにつれ、属していた社会=組織から離れ、別の組織に移っていきますから、いつの間にかその尺度は働かなくなります。ところが、より上位の大集団(国、民族や人種・・)からは離れられないから、その大集団が持つ尺度=常識によるよそ者扱いは長い間続きます(注3)。
 さて、その尺度によって差別された人々はどう感じるでしょう。不愉快になり、時には心身に耐えがたく、生死の問題につながることがあります。悲しみと憤りを抱きます。愚かな偏見によって差別され、その結果の悲しい例はいくつもありますね。

尺度=常識が変わる時
 差別に対抗する戦いは、ナショナリズムの戦いから子供たちのいじめまで、時には英雄的ですが、悲しく、無くなってもらいたいものです。 
 差別が無くなるのは、差別する側の尺度=常識が変化する時です。それまで信じていた尺度も外部環境の変化が続くと、やがて説明力や適合力を失います。意味をなさないことが分かってくるのです。新常識にとって代わられるわけです。
 このように考えてくると、差別という言葉を隠すのではなく、いくつもの差別の尺度の由来を改めて考えなおしてみることが、私たちにとってとても大事だと思うのです(注4)。そうしてこそ、世の中の差別が、区別になっていくのではないでしょうか。

※注1  マイケルポーター が提唱した経営戦略。邦題「競争戦略論」ダイヤモンド社
※注2 「新明解国語辞典第5版」1997年11月三省堂
※注3 差別ということをこのように考えてくると、「ナショナリズム」に考えが及びます。いつか本誌でも、「ナショナリズム」または「国益」ということについて考えてみたいと思います。
※注4 社会的差別をなくそうと制度を作っても人々の心の中にその尺度があるかぎりなくならないし、逆に、陰湿になりますね。
 

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

2010年12月号(VOL 125)より

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文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

辞書的意味
 学ぶということは、まねをするということだとよく言われます。辞書(注1)を紐解いてみると、教えを授かりそれを「みならって」自分のものにすることだとあります。「ならう」には、倣うと習うとありますが、倣うは真似ることで、習うは幾重にも重ねるということだ、と。
 キーワードは、真似と繰り返しなのですね。繰り返し、繰り返し、先人の真似をして物事を知る。小中学校の勉強や受験勉強も、職業に就いてからの勉強もこれですね。でも、それだけではダメで、新漢和辞典では、「学びて思わざれば即ち罔し」という論語の文章を引用し、学ぶだけで考えなければ何もわからない、と説明しています。
 
学びの姿勢
 今、中高年の学びがブームです。とても熱心です。そこで考えたいのが、学びの姿勢です。
 彼らは、非常に自主的、溌剌とやっています。子供の学びに強制が伴うことに対し、大人は強制されていません。学ぶ方法も自分なりに研究してやっています。
 学びの対象は、文化、芸術、歴史や地理に関するものが多いようです。役に立つかわからない(多分役に立たない!)講座が、カルチャースクールやエクステンションカレッジで満員となる人気です。職業には関係しない歴史や芸術に非常に関心を持って学び始めています。何かの役に立たせたいという狙いはないのです。
 
学びが楽しみ
 そんなことをいくつかの中高年のグループで話してみると、一様に「楽しみだからだ」といいます。そうなのです。ちょっと大げさに言いましょう。「楽しむことこそ、知ることよりも、好きになることよりも、高いレベルにおかれる人間的活動だ」と(注2)。学びが楽しみの域に達しているとは、なんと素晴らしいことでしょう。
 
学びを尊重する社会
 学ぶ動機が実利であっても楽しみであっても、学びは結果として視る世界の色彩を変えます。それは、その人の属する組織の変化を促し、ひいては、成長を支えます。
 明治の初期、戦後ついこの前まで、社会全体が変化し、成長したいと思っていました。だから、学ぶことを社会全体の中心に置いたのです。それが、《勉学に励む・{家のためになる=国のためになる}・自分が尊重される・勉学の機会が与えられる》という好循環を作ったのではないでしょうか(注3)。
 学びを尊重する社会は、きっと成長を遂げると思うのです。私たちの企業組織でも、学びを軸に据えることを考えてみましょう。(注4)。 
 ついでながら、子供達自身に自主的に学ぶ意思を持ってもらうには、押しつけることではなく、「こんなに面白いことがあるんだよ」と好奇心を刺激し、楽しみのヒントを与えることでしょうし、「将来役に立つ」ことを得心できるように、大人が社会や人生について物語ること、大人が学んでいる姿を見せることではないでしょうか。 
※注1
辞書は「新編大言海」「広辞苑第6版」「新漢和大字典」を参照しました。なお、ゴッホはミレーやスーラ、日本の歌川広重までもの模倣を繰り返し、繰り返し行ったし(NHK日曜美術館)、ノーベル賞の鈴木先生も、はじめは真似ることからとおっしゃっています。
※注2
藤堂先生(「新漢和大字典」)にならって論語を応援団にします。「子曰。知之者不如好之者。好之者不如樂之者。」(子曰く、これを知る者、これを好む者に如かず、これを好む者これを樂しむ者に如ず。「雍也第六」)
※注3
「坂の上の雲」の秋山兄弟をはじめ明治の人達や戦後の先輩達の勉強ぶりは凄いと感じます。中でも、 実利を生まない俳句の正岡子規を評価する明治の人達は大したものです。
※注4
学ぶことを組織の中心に据えるとは、またそれにはどうしたら良いでしょう。読者の皆様はどう思われますか。  

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年1月号(VOL 126)より  

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文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

責任をとって辞める

 昨今、世間では不祥事の責任追及だらけです。お馴染は「責任をとって辞める。」です(注1)。

 責任は、英語ではresponsibility。本来は原因がその人に帰属する、という意味だそうです。つまり、失敗はその人が原因だ、というのが先にあって、だからその人が制裁を受ける、と意味が続くようです。一語の中に、罪と罰が一緒に含まれているようです。罪は原因、結果は罰。
 辞書には、責任の責は「とげで刺すようにとがめる」こととされています(注2)。刑罰です。「私が責任を持ってやり遂げます」という言いまわしは、やれなかったら罰を受けるつもりだ、という心構えがあるわけです。罰には軽重があります。金銭による賠償もそれです。組織で重いものは解任、解雇、辞任などです。だから、強い決意には「辞める覚悟」があるということですね。
辞めることは逃れること
 さて、私が会社員だったころ、ある事に失敗し「責任をとって辞めさせてもらいたい」と申し出たら、「任に留まってやり遂げることが責任だ、辞めるは逃れる、つまり無責任だ」と叱責されたことがあります。辞書で「任」を引くと、重い荷物、抱え込んだ仕事とあります。責と任とをつないだ「責任」は、「引き受けて務むべきこと」とあります。つまり、任務の意味合いが第一で、罰はその後です。「辞めてそのことを忘れる」、ということは、「荷物を下ろす」ことですね。それこそ無責任だ、という上司のこの言葉は、今も、私の仕事観のもとになっています。
責任=責+任
 次のように言えます。責任は、責+任である。①「任」に重きを置けば、引き受けてやり遂げる決意、②「責」に重きを置けば、罰。結果を引き起こした原因に対する罰を言う。政治の世界では①と②を都合よく使っています。では、我々は、「責任をとるとはどういうことですか?」と、社員に問われた時に、どう答えたら良いでしょうか。 
責任とはやり遂げること。
その為に必要なこと。
 組織の発展には、相応しい能力の持ち主に、相応しい任務を与え、ベストを尽くして貰わねばなりません。事が不調に終わって(=不始末があって)も、それを修復し、対策を講じなければなりません。罰を受けて、罰を与えておしまいというわけにはいきません。失敗の原因を、人に求めるのではなく、そのやり方に求め、将来に向かって改善することです。失敗したその人自身が「自責」の念を持っているとすると、その人は、その任に最適であるかもしれませんね。責任をとるとはやり遂げることだ、そんな風土の会社も良いではないでしょうか?(注3)。
※注1
鉄道事故で「あれだけたくさんの人が亡くなったのだから、トップが責任なしでは済まされない」。警察もののドラマで「俺が責任とる。お前らに責任を取らせない」。でも、責任をとって辞めたあと、その部下が自動的に昇進していく姿(検察庁)はなんだか違和感を覚えます。
※注2
漢和辞典は「学研版漢和大字典」(藤堂明保先生)、国語辞典は「大言海」大槻文彦先生
※注3
責任は自由と隣り合わせ、その人が自由に活動できる背景には責任が生じます。ある会社では上司が「俺が責任とったる」という言った場合は、「おれが謝って回ったる」という意味だそうです。それが、部下に自由を与え、上司は部下が任務を果たせるよう防波堤になる、という意味ならば「やり遂げる風土」が活性化されそうですね。

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年2月号(VOL 127)より  

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文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

名刺の肩書
 名刺には肩書が付き物です。組織の名前、地位や職名です。

 近年、バラエティに富んで個性的で、すぐに何かわからないものが多くなりました。これまでの名前が適切でなくなってきた事情がいろいろと出てきたからからでしょう。英語をもとに、カタカナも増えています。さて、次のものはわかりますか?プロセスデザイナー、フェロー、サステナビリティサービス。では「サキソフォン」は?先日、ある環境関連ビジネスの会社の「プロデューサー」の名刺を持っていた方が来られたので、どういう意味なのか聞いてみたら、説明に困っていました。(注1) 
 
名前の意味はだれのもの
 組織の名前や肩書はわかりやすくという意見がありますが、他人にわかりやすいかどうかは、私は、そんなに気にしません。極論ですが、「検非違使」なぞ、初めは下々にはわからなかったのではないでしょうか?言葉とは流通すれば馴染むものですから。しかし、持っている本人が意味をしっかり説明できないとなると変ですね。その環境関連ビジネスの会社は社員に意味をきちっと与えていないのでしょうか?
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アイデンティティ・物語
自分は何者かという定義付けを、アイデンティティといいます。が、アイデンティティというとIDカードを連想してしまうので、私は「物語」と言いたいのです。「肩書きにある地位や職名にはそれに込められている物語がある」と(注2)。これまでと、今と、これから、と。物語という言葉には、動的・創造的な語感が伴います。
 社会に出て初めて名刺を貰った時のことを思い出してみてください。営業部に配属された時に渡された「営業主任」の名刺、課長に抜擢された時の「企画担当課長」の名刺、試験に受かって資格名を肩書につけた時。自分を、少しだけ誇らしげに示し、また、これからの仕事に思いを馳せる、そんな記憶がきっとあると思います。
 
名刺を誇りに
 人の名前は単なる「記号」ではありません。その人の物語を秘めています。名刺の肩書も単なる「記号」ではありません。
 社員の方々が、会社や組織の名前、地位や職名を誇りに思ってくれていると嬉しいですね。誇りは良い仕事に通じます。自分の組織の名前や、職位、職名に誇りを持つ社員がいることは良いことです。一人ひとりの社員の物語を、名刺に託して作っていく会社、良いと思いませんか。そのためには、名刺とその肩書を大事にすることです。
 できあがった名刺を、ぽんと事務的に渡すのではなくきちっと意味を説明して渡す儀式を始めてみませんか?新入社員の入るこの4月から。
※注1
「サキソフォン」は70歳をとうに越したプロのサックス奏者のOさんの名刺です。Oさんの長い音楽人生がここに凝縮されているような気がします。筆者も、そう書いた名刺を持つことが夢です。
※注2
名前は、長く使うと、イメージがついてくるようになります。伝統的なメーカーの、技術員、技手、技師という技能工の職階名から、私は、ものづくりに誇りを持つ「職人」達の顔を思い浮かべたものです。残念ながらその伝統も、今は、消えてしまったようです。

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年3月号(VOL 128)より  

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文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

被災地では多くの人々が働いています。避難所に居ながら、家族の安否が不明なのに、職場に通い働いています。救援のプロではない普通の職業の人が。そういう多くの人々が懸命に働いている姿から、職業というものを改めて考えてみました。

職業は金儲けの手段?
 学生だったころ、職業として何かをすることは、その何かに対して冒涜のような気がしていました。職業にすると、そのこと自体の意味を曲げて、金儲けの手段にしてしまうという思いからでした。

 生活の糧たる金銭を得ることにはできるだけ短い時間を割き、楽しみとして、したいことに多くの時間を向けるのが、理想のような気がしていたのです。
 でも、職に就いて報酬を得るということは「他人の役に立つから」で、それが本質的な価値だと実感するのは、就職して、そんなに遅くはありませんでした。就職して2年後、商品を開発し販売するという営業の職に就きました。
 部品メーカー、仕入商社、設計、開発、販売店、ユーザーの土建屋さん、ダンプの運転手さん等々、それこそ無数の連鎖が、毎日、目の前に登場し、お互いの貢献が絡み合っている。「お金」は、貨幣として人々の無数の働きを関係づけている。そしてその「素」は、個々の「働き」で、職業として、人々が継続的に従事することに発している。それが、実感を伴って分かっていったのです。 
 
職業の喜び
 「お金」を得ることを目的にするのは、文字どおり本末転倒です。でも、職業が、そもそも「他人の役に立つ」=貢献に根差しているなら、そのこと自体がやりがいに通じます。貢献の質を高めること、貢献の量を高めるには、知恵が要ります。その工夫に知恵を出せた時、心地よい満足感を感じます。それが、生きがいに繋がる職業の喜びです。
 趣味の喜びと職業の喜びと、どちらにより深い満足感を感じるかと聞けば、おそらく多くの人は職業の喜びと答えるでしょう。
 そして、災害の時には、被災者も、そうでない人も、働くという連鎖の中で、自分が社会に役に立っていることを感じます。今度の大震災もそうです。やっぱり自分の仕事に価値があったのだ、ということが、働いている全ての人に実感されたのだと思います。
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今日も多くの人が建設現場を支えています。
 
リーダーは毎日が大事
 職業は、控えめに言っても、おそらく、思いつくあらゆる職業に、その価値があると思うのです。
 しかし、職業がそういうものであったとしても、実は、毎日毎日、そんな満足感を感じているわけではないと思います。肉体的に辛い作業も、厳しい訓練もあるでしょう。あるいは、平凡で、退屈であるかもしれません。それが長く、長く、続きます。満足感を得られず、別の職を求めて転々とすることもあり、また、訓練に飽き、研鑽や工夫を怠り、その中での喜びとは無縁になってしまうこともあります。
 読者のみなさん、どうでしょうか、組織のリーダーの役割がここにあるとは思いませんか。
 部下達に、自分の仕事の意義を感じられるように、日々の生きがいが、仕事の中で見出せるように、頭を絞ること、リーダーは、そういうことをするからリーダーなのではないでしょうか。そして、そのひとつひとつの職業の意味と方法を意義づけていくこと、それがリーダーの大事な役割だと思います。

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年5月号(VOL 130)より  

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大惨事
 3月11日の真っ昼間、突然の揺れと津波に世界中が文字通り震撼させられました。未曽有の大惨事でした。膨大な数の被災者と、現代文明を支えていた原発の事故!亡くなられた方々のご冥福と、ご遺族への心からお見舞いを申し上げます。

 (執筆している今日は)あれから10日経ちました。まだ、生存者救出のニュースが飛び込んできます。悲しい中にも、そんなニュースを耳にし、心が熱くなりました。救出にあたっている消防・警察・自衛隊などの皆さんを心から讃えたいと思います。
 阪神淡路の折もそうでした。多くの人が懸命に救出活動を続けてくれました。被災地域に居る人たちだけでなく、遠くから駆けつけてくれる大勢の人々に心打たれました。とてもありがたく、胸が熱くなったものです。
 支援が遅い、情報開示が少ないなど、批判も多い中、阪神淡路の教訓は皆の心に、確実に生かされていると思います。想定外だった(ほんとうに想定外だったのだと思います)原発事故への対処にも、現地に大勢の人が残り、さらに、各地の消防隊、自衛隊も出動し、作業が続いています。大惨事に胸が痛みますが、なんとか乗り越え、復興していかねばなりません。
 こういう危機を前にして、隠れていたかもしれない人間の良いところが、外に飛び出してくるのだと思うのです。わが身の危険を顧みず乗りこんでいく姿が報道される都度、心を打たれます。 
 
プロの誇り
  思うと、その中でも、消防・自衛隊・自治体職員の勇敢な行動はどうでしょう。危険だと、あるいは、肉体的に無理だと言われても、「これが仕事です」と乗りこんでいく姿。前号で「誇り」ということに触れましたが、そんな姿にこそ「誇り」というものを感じます。
 本当に誇りうること、それはきっと「他の人に役立っている」ということだと思うのです。
 先だって、公認会計士協会の研修で、講師の弁護士の方が、「職業専門家として自分に戒めていることに、知・仁・勇という言葉がある」と述べておられました()。さらにその方は、ご自分に「最も大事なのは勇だ」と戒めているとも話されたのです。とても内容の濃い講義をされた後のことでした。受講していた我々は、気持ちの引き締まる思いを抱いたものです。
 知によって世の中のことが分かる、分かると人の役に立ちたいという仁の気持ちが刺激される、そしてそれを貫こうという勇が生まれる。人のために尽くすという誇りがあるなら、職務に喜びが生まれ、誇りは恐れを克服します。その上で、どうやったら良いか、知を駆使する。「知仁勇」は循環します。
 英知を駆使し、恐れを克服し、職務を全うしようとしている全ての人たちを讃えたいと思います。
 
※注
 論語(子罕第九の28)子曰知者不惑仁者不憂勇者不懼(子曰く、知者は惑はず、仁者は憂へず。勇者は懼れず。)通常の解釈では文中のようなことは言っていません。しかし、私は、知仁勇の善循環はあると思うのです。

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年4月号(VOL 129)より  

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 今回の震災で、菅総理が福島原発を被災初期に訪れたことが批判されました(注1)。今朝も、テレビで、コメンテータが発言していました。私には、それは少々奇異な感じがしました。なぜなら、いち早く、現場に行き、状況を見てくるという行為は、至極、当然だと思ったからです。
 そこで今回は「トップにとって現場を見ることの意味」について考えてみました。

誰が現場を見るべきか
 私たちは、生産管理を始め全てのジャンルの業務改善で、現場重視を言います。知恵は現場からだ、「現場」で「現物」を見ながら「現実的に検討すること」が大事だ、と。この心構えは3現主義とも言われ、我が国の企業の力を強めてきました。
 しかし、専門的知見がない人が現場を見ても、解決策が発見できないことも有るでしょう。今回、総理を批判している人の意見に耳を傾けると、こういうことでしょうか。
 「現場が大事なのは、知恵を出す人にとってである。指揮官はそんなことではなく、全体が見渡せる場所で、全体の状況を良く観察し、指揮をとることだ」と(注2)。
 確かに、いくつもの関連したことを総合して解決するための構想は、部分に拘泥しすぎると失敗することも有るでしょう。全体の指揮者は、大所高所から観察すべきだという言い分も、正しそうです。
 ですが、やはり、私は、結論的に、現場を見ることは必要なことだと思うのです。

現場・現物と現実
 現場は、そのことが起きている場所。現物は、それが起きている物。そして、そこに現れているのは現象です。現場・現物に接し、現象を観察し、その意味、それが生じた原因を考え、頭の中に因果関係を組み立てます。それが得られた「現実」です。
 人はそれぞれの体験を前提にしていますから、同じ現場・現物による現象を見ても、その受け止め方が異なります。現実は人によって異なるとも言えます(注3)。だから、改善活動で、現実=自分が解釈したストーリーを仲間と交換し合うことはとても大事なことなのです。

トップの課題
 企業・政府・どんな組織でも、トップが解決しなければならない課題は重大かつ困難です。その解決のために、多くの人の知恵と力を集めるのがトップの仕事です。そして、様々な障害と闘わねばなりません。
 障害とは、課題相互が絡み合っているばかりでなく、組織内における駆け引きや個人的な思惑による攻撃、それらに妥協してしまったり、逃げてしまいたいと思う自分の弱さなどであり、様々なものが立ちはだかってきます。
 そんな時、自分自身を奮い立たせ、熟慮の末の結論を行動に移さねばなりません。報告の報告・・・という現場から離れた所では現実を自分の中に描くことはできないでしょう。
 現実を描くために、時には、悲惨な現場、悲しみの涙、あるいは、人の触れあいによる感動・・・これらを目の当たりにすることによって心に記憶される、映像・におい・動悸の音・・・、こういうものこそが大事なのです。それを思い出す度、やらねばならないという想いがひしひしと湧いてくるはずです(注4)。
 こういうことから、トップの現場視察はできるだけ早い時期になされるのが良いと思うのです。 

※注1 「12日午前7時過ぎにヘリコプターで同発電所を訪れ…東電職員らから状況の説明を受け、その後、宮城・福島両県を空から視察した後、帰京した。」
  YOMIURI ONLINE  http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110328-OYT1T00732.htm?from=y10
※注2 今回の総理に対する批判は他の事情もあって一概にその正否を論じられません。本稿は、あくまでこれをきっかけに、純粋に、トップにとっての「現場」「現実感」を考えてみようとしたものです。
※注3 3現主義を主張している人も誤解しているのですが、現実は、誰にとっても同じというのでは決してないのです。
※注4 菅総理は、あの悲惨な出来事を直接目の当たりにし、生き方が変わったはずです。 

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年6月号(VOL 131)より  

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決断の遅さ
 どう動くか決めるのが遅かったために、取り返しのつかないことになってしまった。今回の震災では、そんな悲しいことがいくつも報道されました。どうして、もっと早く決断できなかったのだろうかと。
 経営学者・実務家は、欧米に比べ日本は「意思決定」が遅いと指摘します(注1)。今、こんな指摘を受けると、とても気持ちが沈んでしまいます。そして、本当にそうなのかと、考えてみたくなります。

決断の遅い理由
 すぐに決められないのは何故でしょう。相手のニーズが分からないと、サービスの仕様の提示ができずに迷います。どのくらいの津波が何分後に来るか分からないと、高台まで逃げるべきか隣の市役所の屋上に逃げるべきか迷います。つまり、何なのか良く分からないこと、前もって考えたことがないことなどは、その意味を即座に評価することができません。ですから、対応がすぐに決められるわけがないのです。すぐに決められるのは、自分が良く知っていることでしょうか。何をしたいかということがはっきりしていることもそうですね。
 つまり、決める前には、自分の頭にある過去の記憶や類推を行って対象を「読む」ということがあります。それが分からないと、周りにいる人とも話をして合点を得ようとします。それが決断の「遅れ」に繋がります。しかし、それは自然なことなのです。

決断を導けない「想定外」とその責任
 科学の進歩、社会関係の複雑さ(注2)や規制などで、今や、一般の人たちには、問題の本当のところが何なのか分からない、ということが数多くあります。だからこそ学者や研究者、専門家の洞察が欲しいのです。
 ところが今回の一連の出来事では、その人達から「想定外」が連発されました。予想もしていなかった、と。では、それは、やむを得なかったことなのでしょうか。
 政治家も企業のトップも、事態のリアリティを直接得ていることは稀です。科学の先端を行く問題、研究の第一線でのこと、利害関係者の多い問題などは1次情報に接しておらず、解釈されたものの上に載って仕事をしています。だから、1次情報を誰が把握するか、それを誰が解釈するか、それをどう伝達するかということはとても大事です。
 今回の事態でいえば、その道の専門家が1次情報を使って真実に迫っていたか、ということです。
 他のことでも、同じ反省はないでしょうか。どこかで、解釈・洞察を投げたり、割り引いたりしていないでしょうか。私たちもある分野では専門家です。自戒を込めて、書いています。途中でサボってしまった、ということはないでしょうか。学者・研究者・実務の専門家は、きちっと1次情報から事態を解釈し、それがどんなことであれ、必要な人に正直に届けるということを日頃から心せねばなりません。
 もう、文明と社会の進歩は、そういうところに来ているのです。 

決断の戦略
 蛇足ながら、決断の戦略を二つ。

⇒最悪を予想して、最高の手を、即座に決断する
⇒事態の推移を読むため、あえて決断を延ばす。
 

災害では、被害を最小にすることが目的ですから、前者。無駄になっても、それを喜ぶ。他方、チャンスを掴むための決定の場合は後者。そのために、我慢も要る。

 あいまいなことをはっきりさせようと、人が集まる、話合う、次第に考えがまとまる、みんなが同意する。そういう行為が、人の組織としてまとまることの意味で、とても大事だと思うのです。
 まだまだ書き切れていません。
 皆さんも、意思決定の遅いこと速いことを巡って、是非、会社で議論をしてみてください。

※注1 前グーグル日本法人の社長=辻野晃一郎さんは、組織が複雑、現場とトップとの間が長い、信頼感のないおごりの問題だ、と指摘しています。(朝日新聞2011年6月4日13面)

※注2 お互いの依存関係が分からぬほど入り組んでいて、規制の網はとても広範にかつ複雑です。 

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年7月号(VOL 132)より  

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文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

語感
 「いろんな当たり前が危うい状態におかれている」。そこで、今月の言葉は「転換」。
 その意味は、方向、状態を変えること。類語は、変化、変換、改定、スイッチ等々があります。チェンジ、改革もそうです。語感の違いはあっても、意味はみな同じです。
 こんな姿になりたいと努力を傾けるのは成長。「変わる」「変える」という語の語感は、成長して定着した後のことを表しています。

何を変えるか?
 学校、職業、技術、就職先。研究対象、政策、信心・・・・。友達、恋人。起きる時間、寝る時間。禁煙、断酒、減量。遊び、楽器、趣味嗜好・・・。中には、簡単に変えられるもの、難しいもの、いろいろあります。
 政策、重点の置き所、関心事、こういうものを変えるのは難しいものに該当するかもしれません。それは、背後にある自分の生き方やものの観方を変えることでもありますから。

動機
 「変える」動機を考えてみると「うまくいかないから」「もう通用しないから」という否定的なものがあります。一方、肯定系とでも言うべきか、今の良い状態をさらに高め、ありたい姿を求めていこうという、積極的なものもあります。
 いずれでも「変える」の語感には、良い状態に変えると言う気分を伴っているので、この言葉そのものが(内容を示さなくても)スローガンになり得ます。オバマ氏のチェンジや小泉氏の改革が持つ響きです。 

変われないこと
 皆さんには「本当は変えたいけど変えていない」ものはありませんか?変えることにチャレンジしても、うまく変えられないという、経験はありませんか?
 どうしてそういうことがあるのだろうかと、よくよく反省してみると、自分の心の中に、「変えてその後、何が起こるのだろうか」という不安と、「これまでのものを失うのは寂しい」という気持ちが二つあるということに気づくことはありませんか。でも、もっと嫌なことがあります。変えないその理由・言い訳を探す自分。合理化の自分です。
 いやいや、そういう自分こそ変えたい!

変える力は何?
 このシリーズで、勇気についてこんなことを書きました。「知によって世の中のことが分かると人の役に立ちたくなる、人の役に立つ仕事から生まれる喜びは恐れを克服する。《知仁勇》の循環があるのだ」と。
 しかし、「変える」ということを掘り下げてみると、こう書いたことも虚しいです。もう一皮むいて「知仁勇」を循環させるための力について触れていないからです。
 変えることを阻む三つの自分の心、不安・さみしさ・合理化。これらを克服する力はどうしたら得られるのでしょう。 

本当の力
 是非とも考えてください。自分にとってそれは何か、と。
 悩み続けた私にとっては、その答えは「友」でした。皆さんの中には書物だと言う人もいるでしょうし、信仰にそれを求める人もいるでしょう。しかし、私は、それらをまとめて「友」と表現したいのです。
 疑問を出してくれるのも、変われない自分を励ましてくれるのも「友」。人間にとって、勇気は、ひとりでに湧いてくるわけではない、人には「同行」()が要る。それは、きっと、絶対的に正しい解だと思うのです。
 最後に、妻が友でもあるひと、夫が友でもある人は、幸せですね。

※注 同行(どうぎょう)…連れ立って行くこと。また、その人。連れ立って神仏に参詣する人々。(goo辞書より抜粋)
 西国巡礼者などがいつも弘法大師と一緒に巡礼しているという意で笠に書きつける語は、同行二人(どうぎょうににん)。キリスト教は主イエスとともに歩くことを特に言う。  

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年8月号(VOL 133)より  

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文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

 モヤモヤしていたことが急にはっきりする、あ、これだ、と思う。とても、嬉しく身体がわくわくしますね。今月は、そんな身体の体験をもたらす「ひらめき」「発想」「着想」について。
 昨今、論理的という言葉が如何に多く使われていることでしょう。特に会社では「論理的思考」が強調されませんか。論理的思考は物事を区分し因果、対立、並列等の関係を分析的に導き出すことです
 一方で、ひらめきを伴う発想についてはどうでしょう。発想が大事だ、と言うものの、その力をどう養うかということは、なかなか言われません。独創性は、個人の能力やセンスだと決めてかかっているからかもしれません。
 たしかに、独創的に何かを思い浮かべるということは難しいですね。新商品、新機能を考案できなくて、壁にぶち当たった経験は、みんなが持っています。会社でも、友達の会話でも、テレビの解説も、人が言ったことに色付けして話していることが如何に多いことでしょう。独創だと思っても必ず先人の言葉に影響を受けていますし、何らかの真似があります。
 さて、ここで、着想が形になるプロセスを考えてみましょう。二つの局面があります。ある着想(要素)が頭の中に浮かび(Ⅰ)それらが相互に結びつき別のイメージ=言葉が浮上する(Ⅱ)、という二つです。

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 Ⅱは、要素同士が関係して違う言葉が浮上する作業で論理ではありません。頭の中で繰り返し、繰り返しそれらの言葉を想い続ける、時に離れまた集中する、その繰り返しによって新しいイメージ=言葉が突然生まれる、ということです。ここで、想い集中する対象である着想の要素が、他人の言葉、したことを真似して出した(Ⅰ)ことであっても、Ⅱのプロセスを自分で行えば独創だと言って良いと思います。要素=種を結合、分離、溶解して、新しい言葉=イメージを得るのですから。これは、誰でも、やればできます。トレーニング手法もあります(注1
 では、着想要素はどうしたら独創的に得られるでしょう。それこそが難しいことです。なぜなら、人は、生活している社会、時代、組織によって観方、考え方が固まっているから、みんな周りの人と同じ着想をしてしまうのです。
 だから真似の対象を、同時代でない人、同じ組織でない人、異質な人にすれば、独創と言われることもあります。どうでしょうか、無邪気だった子供のころの自分の行動の中に「あ、凄いな、これって」と思うことはありませんか?(注2)。
 そして、さらに、絶対的に独創的な「真似」の対象があります。それは動物の行動です。自然界の生き物の発想=行動は人間とは全く別の次元にあります。身体の構造・機能からして、独創的ですから(注3)。
 だから、独創を重んじたくなったら、子供のころの遊びを思い出したり、自然界の生き物を観察し、それになりきってみて、そこからヒントを得るのです。「5歳に戻ったとしたらどうするだろうか」「ピューマだったらどうするだろうか」って。
 どうでしょう、時々、一人で、動物園を訪れてみませんか?

 


※注1 Ⅱのプロセスを実践的に導く技法にKJ法、NM法などがあります。なお、NM法はⅠにも有効です。
※注2 邪気とは、その社会の中で有利になりたいという欲望からきていますから、社会の常識に沿う、つまり、独創とは逆のことに向かうのです。
※注3 独創が必要なジャンルに生きる人は、最先端科学のロボット工学から現代芸術まで、あらゆる人々が、自然界の生き物を観察します。

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年9月号(VOL 134)より  

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文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

 今年は時の経つのがとても長く感じられました。それでも、季節はめぐり、こうして秋が深まり始めました。秋はたそがれの中にその風情が現れます。日一日と陽の沈むのが早くなり、じきに木枯らしの冬が訪れます。それなのに、秋は日本人がとても好きな季節です。

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 秋とは何でしょう。

漢和辞典
 漢和辞典によると、最初の意味はもちろん四季のひとつですが、「とき、だいじな時、危急存亡のとき」、「穀物が実ること、また、その時」と続き、歳月を表すのにもつかわれるとあります。一日千秋の思いなどの表現です。これらの意味は、中国から伝わってきました。秋は、春夏の働きによって実った果実を収穫する最も大事なときだとする、農耕に生きた中国の人々の意味づけが良くわかります。農耕に生きた私達の祖先もこれを継承しました。

秋への愛着
 しかし、日本人は、秋という季節を重く受けとめているだけではなく、愛着を感じているようです。その光景は淡く、消えゆく色彩の光景です。もちろん、ミレーの「落穂拾い」「晩鐘」を見ると、西欧の人たちも同じ感慨を秋に感じているのだろうと思います。とりわけ農業国であったフランスの田舎の光景です。しかし、大聖堂のような巨大な石組の建造物を天にも届けとばかり作り上げていく西欧の人たちと、木と紙でできた家に住む私達は、同じ農業の民であっても、根本的な違いがあるように思われます。

祖先が生きた国
 私達が、秋のグラデーションの光景に愛着と美を感じるのは、私達の祖先が生きた木の土地からなのだと思います。私達の祖先は、木と紙の家に住み、自然と共に生きました。そこでは摘み取って手に入れてしまうことなどは儚いものなのだ、「在るもの」に寄り添うのみなのだと学んだのでしょう。私達の祖先の美の観念は、きっと、こうして、木の国の地に生きたことから生まれたのだと思います。

小さな秋
 変化すること自体に、消えることの哀しさの中に美がある。そんな感覚は、今も、私達の身体の中に流れているような気がしてなりません()。秋、収穫が終わるころには、季節は衰えて消え行く方向に、厳しい装いをまとう冬に連続します。私達は皆、自分の小さな秋を見つけるのです。

 そんな美意識を持っている民には、自然を所有し、支配し、作り変え、利用していくということは似合いません。寄り添うのが似合っています。自然を征服してしまおうと乗り出し、自然の恵みを強引にこちらに引き寄せてしまおうと考えるのは無理かもしれません。文明の進歩の中に埋もれてしまって、自分達の文化つまり美意識を忘れてしまっていなかったでしょうか。秋は、そのことを感じさせます。

 次の復興の建設は、私達の文化に根差したものであって欲しいと思います。秋の夜長に、私達それぞれの小さな秋を、ゆっくりと語り合ってみませんか。

 


 日本では、ちょっとした住居の片隅にも小さな庭を作って愛でます。その庭は、私達の父や母の代までは無造作に草木、石をおき造作を加えないようにしたものです。山本健吉氏は日本の庭園は「人工の果ては自然に近付くことが究極の目標」だと言っています(「山本健吉集」所収《日本の庭について》彌生書房1983年)。
 また、エーリッヒ・フロムの「持つことと存ること」(邦訳、「生きるということ」(紀伊國屋書店 1977年)には日本人の自然に寄り添う姿の美しさが指摘されています。 

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年10月号(VOL 135)より  

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文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一

SNSと実名
 SNS=Social Networking Serviceインターネット上で複数の人が、会員となって相互にコミュニケーションを図るしくみ=が広がっています。
 SNSは各種ありますが、一般的なものは匿名・仮名であるのに対して、Facebookは、実名・顔出しを特徴として急速に拡大しています。
 しかし、実名は別に特別なことではありません。初期のSNSは全部実名でした。インターネットの普及につれ、個人情報を悪用する人が登場し、セキュリティが問題になり、とうとう、実名を避けることが一般化しました。Facebookに対して、実名だから怖い、実名といっても嘘がある、という人もいますが、実名という条件は、コミュニケーションには大事です。

コミュニケーションの意義
 コミュニケーションは自分が何を思い、人が何を思っているかを知らせ合うものです。内容は千差万別ですが、実社会のコミュニケーションは実名が原則です。
 実名は、コミュニケーションの本質にかかわっています。コミュニケーションは事実だけでなく、情(という人の気持ち)も伝達します。マスクをしたままでは、その内容たる情が誰のものか不審が付きまとうため、継続しません。報という面でも、有意義なことを言っていても、誰が発信しているか分からないのは、不気味です。
 公園などの広場を思い浮かべてください。そこに居る人に声をかけても良いし、ビラを配っても良い。けれども、お互いにマスクをしていては、健全な交流はできないでしょう。

広がり
 公園などの広場で呼びかけても、実社会では交友範囲の広がりには限界があります。
 インターネットは、この実社会の交友範囲の限界を拡大してくれます。交友が広がるのを喜ぶのは、旅を好むと同じように人間の健全な本能かもしれません。

リッチな情報交換
 
実名であり、また、顔写真まで載せているFacebookの意味を考えてみましょう。
 実際の会話は、情報交換をいくらでも濃くすることができます。曖昧な意味をはっきりさせられます。誤解が解け、曖昧なことを理解しあえる濃いコミュニケーション手段を「リッチ」といいます。
 電報よりメール、メールより電話、電話より対面の方がリッチです。記録に残すなどの意味もあって手段は選択されますが、コミュニケーションの喜びをもたらすリッチなメディアは人には不可欠です(注1)。
 顔写真付きの実名で発信し、それへのコメントが自由に書き込めるという工夫は、このリッチ性を高めるのにとても貢献しています。

メディアが社会発展に貢献する
 インターネット社会は、無限とも言える広範囲に広がりました。発信者を隠してしまえる匿名・仮名メディア(注2)だけでなく、実名で情報リッチなコミュニケーションメディアが加わり、これにも参加者が急速に広がってきたことは、画期的なことだと思うのです。
 都合の悪いことを隠す、人々の意見を排除するというようなことができない、開かれた社会が広がっていく期待が膨らみます。全世界で多くの人が相互に交流し理解が広まる、深まる。良いことだと思いませんか(注3)。

※注1 メディアリッチネス:メディアのこの特性を最初に指摘したのはダフト。文脈が伝えられることがリッチなのです。それを発展させた岸教授の論文は組織のコミュニケーションについて考えるのに参考になります。岸真理子(法政大学教授)「情報の多義性とメディア・リッチネス (1991)」
※注2 時の権力に反抗する情報を発するときはマスクをすることはリスク回避として必要になる場合もありますが、ここでは想定していません。
※注3 ここでは、SNSのビジネス利用、SNSでの話題の限界などの論点は紙面の都合で述べませんでした。様々な問題をはらみながらも、実名のコミュニケーションが登場した意義にスポットを当てました。
。 

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年11月号(VOL 136)より  

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衝撃的な出来事
 今年は、衝撃的な出来事がありました。自然の猛威に、愛する家族を失った人たちの悲嘆を思うと、心が痛みます。
 しかし、衝撃的な出来事の中には、あろうことか、人が、自ら為したあさましい行為もありました。
 大王製紙、オリンパス、それに、大きくは取り上げられませんでしたが、脱税、公正証書偽造、補助金不正等々の事件が幾つも登場しました。東京電力の原発事故への対応は言うに及びません。
 自然の猛威を体験し、今、根本的に生き方を問うことが始まっています。これらのあさましい出来事からも、私達は何かを学び直さねばなりません。

あさましいとは
 「あさましい」と書きました。この言葉は、ひどく嘆かわしい有様を表しています。と同時に、この言葉は、哀しいという語感も含んでいます。
 卑劣な行為はみじめで哀しいことです。大事な人を失うことが分かっていながら行ってしまう。哀しいことです。
 それは人の本性なのでしょうか。
 「悪人」というベストセラー小説が映画化され(
)、ご覧になった方は多いでしょうが、そこで描かれていることは、普通の若者たちの悪事です。が、その発端は実につまらないことです。
 しかし、一方で、私達は心を打つ善き行いにも数多く出会いました。人を助けるために窮地に飛び込んでいく人たちです。皆、普通の人です。
 両方をみると、人は本性が悪である、善である、と決めつけることはできないのでしょう。

あさましさ⇔誠実
 あらゆるあさましい行為の一番の大本は何でしょう。
 そこで、ふと思い出したのが、50年以上前、ボーイスカウトに入団したときに唱えた「スカウトは誠実である」という言葉です。ボーイスカウトにはいくつも掟があるのですが、これが最初に掲げられています。
 そして、これが大本なんだと、今確信するのです。嘘が全ての始まりと。嘘は否定的な語ですが「誠実」の対義語といえるでしょう。利益追求、保身のための行為でも「嘘をつかない」ことを通すなら、少なくとも、あさましさからは離れられるのではないでしょうか。

踏みとどまらせるもの「名誉」
 
 反論、「それは分かっている、分かっていながら踏み外すのは何故だ」。
 子供のころに植えつけられる倫理はとても大事です。嘘が一番の悪だということを刻むことができるのは、幼児の時です。
 しかし、それがない場合もあります。嘘による怖さ哀しさを全ての人が経験しているわけではないからです。
 では、大人になってからはどうしたらよいか。私は、また、ボーイスカウトの「誓い」を思い出すのです。そこではこう言うのです、「私は名誉に掛けて誓います」と。
 当時は「名誉」という言葉が理解できませんでした。しかし、今、これが、心を支えます。
 名誉なんて大げさな、誰にでもあるのか、と言われるかもしれません。しかし全ての人は自分の名前を持っています。その名前は大事なはずです。名誉はその名前のことなのです。名誉は、特定の宗教や国や職業のものではなく、万人に存在します。その人自身の名前、それが大事だ、ということです。
 「自分にかけて誓う」という体験をどこかで得ることができると良いのですが。

 

※注 「悪人」は吉田修一作。李相日監督で映画化されました(2010年)。若者たちが、ちょっとしたことから悪事をなす。が、彼らは悪人なのか何なのか。


 

エールパートナーズ会計発行:成長企業のための情報誌「グローイングカンパニー」

  2011年12月号(VOL 137)より  

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