文●株式会社コア取締役/組織開発コンサルタント/公認会計士 蒲池 孝一
今年は時の経つのがとても長く感じられました。それでも、季節はめぐり、こうして秋が深まり始めました。秋はたそがれの中にその風情が現れます。日一日と陽の沈むのが早くなり、じきに木枯らしの冬が訪れます。それなのに、秋は日本人がとても好きな季節です。
秋とは何でしょう。
漢和辞典
漢和辞典によると、最初の意味はもちろん四季のひとつですが、「とき、だいじな時、危急存亡のとき」、「穀物が実ること、また、その時」と続き、歳月を表すのにもつかわれるとあります。一日千秋の思いなどの表現です。これらの意味は、中国から伝わってきました。秋は、春夏の働きによって実った果実を収穫する最も大事なときだとする、農耕に生きた中国の人々の意味づけが良くわかります。農耕に生きた私達の祖先もこれを継承しました。
秋への愛着
しかし、日本人は、秋という季節を重く受けとめているだけではなく、愛着を感じているようです。その光景は淡く、消えゆく色彩の光景です。もちろん、ミレーの「落穂拾い」「晩鐘」を見ると、西欧の人たちも同じ感慨を秋に感じているのだろうと思います。とりわけ農業国であったフランスの田舎の光景です。しかし、大聖堂のような巨大な石組の建造物を天にも届けとばかり作り上げていく西欧の人たちと、木と紙でできた家に住む私達は、同じ農業の民であっても、根本的な違いがあるように思われます。
祖先が生きた国
私達が、秋のグラデーションの光景に愛着と美を感じるのは、私達の祖先が生きた木の土地からなのだと思います。私達の祖先は、木と紙の家に住み、自然と共に生きました。そこでは摘み取って手に入れてしまうことなどは儚いものなのだ、「在るもの」に寄り添うのみなのだと学んだのでしょう。私達の祖先の美の観念は、きっと、こうして、木の国の地に生きたことから生まれたのだと思います。
小さな秋
変化すること自体に、消えることの哀しさの中に美がある。そんな感覚は、今も、私達の身体の中に流れているような気がしてなりません(注)。秋、収穫が終わるころには、季節は衰えて消え行く方向に、厳しい装いをまとう冬に連続します。私達は皆、自分の小さな秋を見つけるのです。
そんな美意識を持っている民には、自然を所有し、支配し、作り変え、利用していくということは似合いません。寄り添うのが似合っています。自然を征服してしまおうと乗り出し、自然の恵みを強引にこちらに引き寄せてしまおうと考えるのは無理かもしれません。文明の進歩の中に埋もれてしまって、自分達の文化つまり美意識を忘れてしまっていなかったでしょうか。秋は、そのことを感じさせます。
次の復興の建設は、私達の文化に根差したものであって欲しいと思います。秋の夜長に、私達それぞれの小さな秋を、ゆっくりと語り合ってみませんか。
※注 日本では、ちょっとした住居の片隅にも小さな庭を作って愛でます。その庭は、私達の父や母の代までは無造作に草木、石をおき造作を加えないようにしたものです。山本健吉氏は日本の庭園は「人工の果ては自然に近付くことが究極の目標」だと言っています(「山本健吉集」所収《日本の庭について》彌生書房1983年)。
また、エーリッヒ・フロムの「持つことと存ること」(邦訳、「生きるということ」(紀伊國屋書店 1977年)には日本人の自然に寄り添う姿の美しさが指摘されています。